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張ダビデ牧師 - エルサレムから始まった教会回復の歴史

 

1. エルサレムを離れてはならない - 教会の出と聖の約束

イエス・キリストが復活された後、使徒たちと共に過ごされた折に、まず語られた言葉の核心は「エルサレムを離れず、父が約束されたものを待ちなさい」という命令でした(使徒1:4-5)。これは使徒の働きの最初の場面にはっきりと示され、初代教会の重要な出発点となりました。主が「父が約束されたもの」とおっしゃったのは、まさに聖霊を指します。これはヨハネが水でバプテスマを授けた時とは次元が異なる「聖霊によるバプテスマ」を受ける時代が間もなく到来することを意味していました。

当時のエルサレムを取り巻く状況は非常に危険で物々しいものでした。主を十字架につけた宗教権力と世俗権力は勢いづき、イエスに従う人々を根絶やしにしようと脅威を放っていました。それにもかかわらず、復活されたイエス様は弟子たちに「エルサレムを離れてはならない」と仰せられたのです。言い換えれば、「退くことなく立ち向かいなさい」という聖なる挑戦の言葉であり、「あなたがたが持つべき信仰の出発地」を宣言されたとも言えます。

「エルサレム」はそのようにして初代教会が始まる地点となりました。そこは神殿がある物理的空間であるのみならず、「福音が流れ出す出発線」という重要な象徴性を帯びています。「教会」という新しい共同体は、このエルサレムで胎動しました。ルカの福音書の最後の章(24章)でも、主は弟子たちにエルサレムに留まり、「上からの力を着せられるまで」待つように命じます。そして使徒の働きにおいて、その約束が成就し、ペンテコステに聖霊降臨が起こります。この聖霊降臨は、以前とはまったく異なる時代、すなわちすべての信じる者が神の霊を受ける時代の幕開けを告げるものでした。旧約時代には数百年に一度、あるいは特定の預言者や王、あるいは区別された人に特別に臨んでいた聖霊が、今や主の名を呼ぶすべての者に「誰でも」臨むという恵みの場が開かれたのです。これは律法主義者たちが受け入れがたいほどの大きな自由の福音であり、同時に従来の宗教権力の構造を揺るがすメッセージでもありました。

張ダビデ牧師は、この聖霊の時代到来に対して、教会の出発が「血の代価で買い取られた教会がエルサレムで建てられたこと」である点を繰り返し強調してきました。教会が「建物」ではなく、「主の血によって救われた者たちの共同体」であるという事実こそが、キリスト教信仰の根本であるという説明です。特に使徒の働き1章8節、すなわち「ただ聖霊があなたがたの上に臨む時、あなたがたは力を受け、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となるであろう」という御言葉は、初代教会の宣教パラダイムを定めた核心の箇所です。教会はエルサレムから始まり、ユダヤとサマリアを経て地の果てまで福音が拡張していく構造で成長しました。これは教会が持つ宣教的本質を最もよく示すものであり、この構造は単に地理的拡張だけでなく、ユダヤ人に限られていた福音が言語や民族、階級、過去の宗教的背景を超えて、全地球的かつ人類のあらゆる領域へ伸びていくことを指し示しています。復活されたイエス様が再び来られるその日まで、教会はこの命令のもとにとどまり、絶えず福音を伝えなければなりません。

マタイの福音書24章36節にあるように、「その日とその時は、だれも知らない」と言われています。いつ主が来られるかは、父なる神だけがご存じのことです。弟子たちがイエス様に「イスラエルの国を回復してくださるのはこの時なのですか」(使徒1:6)と尋ねたとき、イエス様は時と機会は父がご自身の権威において定められたものであり、あなたがたが知ることではないとはっきりおっしゃいました(使徒1:7)。ところがそのすぐあとに「ただ聖霊が臨むならば証人となる」と語られます(使徒1:8)。これを通してイエス様は、私たちの焦点を「時期の予測」に置くのではなく、私たちの現在の使命、すなわち「福音を伝えること」に置くべきであることを改めて確実に示されました。私たちが悩むべきは「主はいつ来られるのか」ではなく、「主が再び来られるその時まで、福音をどのように伝えながら生きるのか」ということなのです。

復活された主はこのように、弟子たちに二つの大きな方向性を与えられました。一つは「エルサレムを離れず、聖霊を待ちなさい」ということであり、もう一つは「聖霊が臨んだら地の果てまで福音を伝えなさい」という命令です。この二つは互いに矛盾するものではありません。待つというのは受け身で無力な態度を意味しません。エルサレムにとどまること自体、すでに宗教権力や世俗権力の脅威に立ち向かう信仰の決断であり、その決断によって与えられる恵みこそが聖霊でした。そして聖霊が臨むや、教会は「出発点」であるエルサレムから爆発的に成長しつつ、ユダヤ、サマリア、異邦の地へと福音を拡張していくようになります。

このとき「マルコの屋上の間」は象徴的な場所です。使徒の働きで、弟子たちが心を合わせて祈っていたマルコの屋上の間は、聖霊が臨まれた現場となりました。教会史を振り返ると、このマルコの屋上の間が初代教会の母胎となり、その後、彼らが散らされていく過程で福音宣教の中心的役割を担ったと言われています。そしてその「マルコの屋上の間」で起こったもう一つの歴史的出来事が、マッテヤを使徒として選ぶことでした(使徒1:23-26)。これはイスカリオテのユダの裏切りで欠けた十二使徒の席を回復することを意味し、初代教会の聖なる「秩序確立」の事例として挙げられます。張ダビデ牧師はマルコの屋上の間について「約束のご臨在が現れる場所であり、裏切りによる空白さえも回復する神の歴史の現場だ」と教えています。

ここに「エルサレムを離れてはならない」という命令のもう一つの霊的意味が浮かび上がります。それはまさに「真理と使命を始めたその場所で、揺るがされることなく踏みとどまれ」ということです。当時のエルサレムはイエス様を殺した勢力がなお権力を握っている危険極まりない場所でした。弟子たちの立場から見れば、逃げたり隠れたりしたい誘惑も大きかったでしょう。しかし主は逆に「むしろここで聖霊を待ちなさい。ここから始めなさい」と命じられます。これは私たちの生活の現場にも当てはまります。時に信仰者が置かれた現実は「エルサレムのように」あらゆる誘惑や攻撃にさらされる場所ですが、主は私たちが退かず、その場所を守り抜くことを願っておられます。そして信仰をもって耐えるその場所に聖霊が臨み、新たな歴史が始まるのです。

エルサレムは「教会の始まり」となっただけでなく、将来の「終末の舞台」でもあります。マタイの福音書24章で語られる終わりの日の徴候も、エルサレムと神殿を背景に展開されます(マタイ24:1-3)。主がオリーブ山で語られたオリベット説教(Olivet Discourse)は終末論的メッセージに満ちています。主の受難はエルサレムで始まり、ゴルゴタの丘で極点を迎え、復活後に弟子たちに与えられた言葉もエルサレムで実現しました。このように、エルサレムはキリスト教信仰史において初めと終わりを包摂する象徴であり、「福音の出発点であり完結点」であることを示唆しています。

しかし、宗教指導者たちが主に着せた罪状である「神への冒瀆」と「神殿を壊す者」ということは、逆説的にイエス様こそが真の神殿であり、私たち一人ひとりも神殿となりうることを宣言する福音です。「この神殿を壊してみなさい。わたしは三日でそれを建てよう」(ヨハネ2:19)という主の言葉は、旧約の祭司制度と神殿中心の律法主義が終焉を迎え、キリストの身体そのものが新しい神殿になるという革新的な宣言でした。かつては建物としての神殿にのみ神の臨在が限定されているように見えましたが、今やイエスを信じる者は皆、聖霊を受けて「神の神殿」とされます。この意味において、エルサレム神殿が崩れ落ち、教会が主の身体なる神殿として立ち上がる転換が、使徒の働きで本格化していくのです。

こうしてエルサレムから出発する福音の力は、世の体制や権力では到底対処できない聖なる力となりました。張ダビデ牧師は、エルサレムが持つ「始発点の重要性」をしばしば説かれます。信仰の歩み、教会の歴史、宣教の使命--これらすべてが初代教会の立っていた「エルサレム」の精神に根付いているというのです。揺さぶりが来るたびに私たちは「エルサレムを離れてはならない」という言葉を思い起こす必要があります。他方、これは決して私たちがエルサレムに留まり続けろという意味ではないことを、必ずわきまえておくべきです。エルサレムは「出発点」であって「終着点」ではありません。むしろ「ユダヤとサマリア、地の果てにまで」伸びていく踏み台です。エルサレムを最後まで守り抜いた結果、ペンテコステの聖霊降臨が臨み、その聖霊の力によって弟子たちは世へと出ていきました。今日の教会も同様です。真理の根幹、福音の基礎、キリストの十字架と復活の上に堅く立った後、世の中へと踏み出さなければなりません。これが「エルサレムを離れてはならない」という言葉の豊かな霊的意味だと言えるでしょう。

まとめると、第一にエルサレムは「信仰の原点」であり「教会の胎動」であり「聖霊降臨の現場」です。第二にエルサレムはまた「苦難と迫害の場所」でもあります。ゆえに、そこに留まれという主の命令は、苦難の中でも退かずに信仰を守れという意味を含んでいます。第三にエルサレムはただ留まるだけの場所ではなく、聖霊を受けた者たちが「地の果てにまで進んでいくための出発点」である点で、私たちはためらうことなく世へ出て福音を証ししなければなりません。教会は主の血によって値を払って買い取られた共同体であり、エルサレムで始まった新しい時代を今に至るまで受け継いでいます。張ダビデ牧師はこの点を強調し、「エルサレムは私たちのある一面というより、信仰全体を貫く象徴だ」と説教してきました。

では具体的に、使徒の働きが示す教会の歴史はどのように展開していくのでしょうか。次の部分では「裏切り者ユダ」と新しく選ばれた「マッテヤ」が重要な転換点として登場します。ユダの裏切りは教会の傷であり、同時に警告でもありますが、マッテヤの選択は、その傷と空白さえも主が回復へと導かれるというメッセージを伝えます。その過程で現れる聖霊の働きと、本格的に拡大していく福音の力を眺めると、教会がどのような存在として成長していくべきかが明確に見えてきます。


2. ユダの裏切りとマッテヤの選 - 回復と勝利の

イスカリオテのユダは、十二弟子の一人でありながら、イエス様を銀貨三十枚で売り渡す裏切りを犯しました(マタイ26:14-16)。これは極悪な罪でした。しかもユダはイエス様に従いつつ献金袋を預かっていた奉仕者、いわば「財政担当」でした(ヨハネ12:6)。サタンはまさにこの金銭問題、貪欲、そして権力者たちとの腐敗した共謀を通じて、イエス様を渡す者を見つけ出したのです。福音書によれば、ユダが祭司長たちのもとへ先に行ったという記録は、この裏切りの発端がまったく外部の強要ではなく、彼の内面に潜む欲望であったことを明らかにしています。そしてこれは最終的にユダ自身を死に至らしめました。

イエス様を捕らえて殺そうとする勢力は、ローマ兵士たち、神殿を守るサドカイ派中心の勢力(大祭司アンナス・カヤパなど)、そして律法を振りかざすパリサイ人を網羅する巨大な宗教・政治連合体でした。彼らはイエスを神冒瀆罪として死に追いやり、神殿の権威に挑む「神殿破壊者」として死刑にまで仕向けました。当時の宗教指導者たちは神殿商売を通じて莫大な利益を得ており、アンナスとカヤパの家門はローマとある程度癒着し、ユダヤ社会の富と権力を掌握していました。イエス様は神殿を「商売の家」に変えたことに激怒し、両替人の台を倒されたのですが(ヨハネ2:14-16)、これが既得権力層の気分を極端に逆なでする結果となったのです。

そうした状況で、ユダは自分が預かっていた財政権を利用し、師を売り渡したのです。その裏切りの結末は悲惨でした。彼は後にイエス様の裁きを直接見て、「私は罪のない方の血を売り渡し、罪を犯した」と告白して銀貨三十枚を再び神殿に投げ込みましたが(マタイ27:4-5)、そのまま首をつって自殺してしまいます。ここから私たちは「後悔」と「悔い改め」は異なるという事実を学ぶことができます。ユダは誤りを悟りましたが、結局は絶望と自責に陥り、自分の命を断ってしまいました。一方、ペテロもまた主を三度否認する大きな罪を犯しましたが、彼は自分を責め立てるのではなく主のもとへ戻って痛切な悔い改めをし、ついには回復への道を見出しました(ヨハネ21:15-17)。この違いは最終的に「真の悔い改めは主を仰ぐ希望へとつながり、人間的な後悔は絶望に終わる」という教訓を与えます。

使徒の働き1章18-19節は、ユダの最期を次のように記しています。「この男は不義の報酬で畑を買い、その後前のめりに倒れて腹が裂け、はらわたがすっかり出てしまった。それがエルサレムに住むすべての人に知れ渡ったので、彼らはその畑をアケルダマ、すなわち血の畑と呼んだ。」マタイの福音書27章によれば、大祭司たちはユダが放り投げた銀貨三十枚を「血の代価」と見なし、陶器師の畑を買って異国人の墓地としました。このようにユダの裏切りによって残された痕跡は「血の畑」となったのです。しかし、そうした破滅の中にも、主は別の道を備えておられました。それが十二使徒の欠員を満たすために「マッテヤ」が選ばれるという出来事です(使徒1:23-26)。

マッテヤの選抜は、単に一人の人員を補充する手続きではありませんでした。使徒の働き1章20節でペテロが詩篇(詩篇69:25、109:8)を引用しながら「その職をほかの人に取らせよ」と述べている点から見ても、これは聖書預言の成就であり、教会の秩序を再整備する霊的な出来事でした。「十二」という数字はイスラエル十二部族と関連する象徴的な意味を持ちます。したがって十二のうちの一人が脱落したとき、残りの十一使徒にとって、その空席を埋めることは単なる人員補充以上に重要でした。また、その役目に就く人は「いつも私たちと行動をともにし、主イエスがヨハネのバプテスマから始めて私たちから離れて天に上げられる日まで、一緒にいた人の中から」(使徒1:21-22)という条件を満たさねばなりませんでした。これはイエス様の公生涯と復活、昇天を直接目撃した者であり、教会の基礎を築くに足る霊的・信仰的な証人であることを求める基準でした。

「ヨセフ(別名バルサバ、さらにユストとも呼ばれた)とマッテヤ」二人の中からくじ引きでマッテヤが選ばれます。くじ引きは旧約時代から続く伝統的な方法でしたが、この決定過程には弟子たちの祈りが伴いました(使徒1:24)。彼らは自ら誰かを推そうと主導的に動いたのではなく、「すべての人の心を知っておられる主よ、この二人のうち、どちらを選ばれたかお示しください」と神の御心を求めたのです(使徒1:24)。これは単なる偶然に任せたのではなく、人間の思惑や政治的利害関係を排して「神の主権に全面的に委ねる」信仰的態度でした。そしてここで選ばれたマッテヤは使徒として加えられ、初代教会の十二の柱の一人として認められることになります。

張ダビデ牧師は、ここでのマッテヤの選抜を「回復の歴史」と呼びます。ユダの裏切りが教会共同体に大きな傷と混乱をもたらしましたが、神はその傷を放置せずに新しい人物を立て、その席を埋めることで使徒共同体が再び全うになるようにしてくださいました。さらに、これは「人間の罪や失敗によって神の御業が中断されることはない」という証拠でもあります。どれほど人間が道を外しても、主は再び機会を与え、別の人を起こして、ついには神の御業を完成していかれます。この文脈でマッテヤの選抜は教会が前に進む霊的エネルギーとなり、その後に迫り来るペンテコステの聖霊降臨とともに初代教会は爆発的なリバイバルを経験することになります(使徒2章)。

ユダの裏切りとマッテヤの選択の間には「奉仕者」という共通点があります。ユダは金銭を管理する立場にありました。彼が堕ちた理由も財政欲、すなわち貪欲が大きく作用していたことを福音書は示唆しています(ヨハネ12:6)。一方、使徒の働き6章に登場する七人の執事、その中のステパノは、施しを担当する執事として忠実に仕え、最後には最初の殉教者となりました(使徒6:1-15、7:54-60)。彼はユダのように金銭を掴んで私利を追求するのではなく、進んでキリストの真理を証しし、命さえも捧げました。ステパノの死を直接目撃したサウロ(のちのパウロ)は、その後ダマスコ途上で主の召しを受け、驚くべき回心を経験します(使徒9:1-9)。これを通して神は裏切りや失敗、死などの絶望的な状況の中においても、さらに大きな善い計画を続けておられることがわかります。

ユダがイエス様を売り、その代価として受け取った「銀貨三十枚」は、当時のイエス様の時代に奴隷一人を買う値段程度だったと言われています。ヨセフが兄たちに売られたときも銀二十枚(創世記37:28)でした。聖書は「人を金で売買すること」を最大の罪悪とみなします。出エジプト記21章16節でも「人を盗んで売る者、またそれを手中に置く者は、必ず殺されなければならない」と命じています。ところがユダは、自分の師であり、さらに神の子であるイエス・キリストを安値で売り渡したのです。この裏切り行為は教会共同体の中でも大きな衝撃として残り、そこで使徒の働きの冒頭からユダの最後が詳しく言及された直後に、すぐマッテヤを立てる場面へとつながります。それは「神の共同体はユダの裏切りにもかかわらず決して崩れない。主が新しい道を開かれる」という宣言でもあるのです。

したがって使徒の働き1章でマッテヤが十二番目の使徒に選ばれる出来事は、ユダを思い浮かべるたびに私たちに「絶望ではなく回復と代償、そして神の主権」を考えさせます。教会が歴史の中で何度も裏切りや分裂、堕落の痕跡を残してきたとしても、神は絶えず新たな人を立て、再び共同体を整え、福音の道を続けさせてこられました。初代教会がこのように空白を埋めて前へ進んだように、現代の教会も同じです。ある指導者が倒れれば、また別の働き人が起こされ、ある地域の教会が腐敗すれば、他の地域の教会が悔い改めて立ち上がります。結局、神が直接導かれる教会は、どのような危機の中でも消滅せず、拡大し続けてきました。

この出来事について張ダビデ牧師は「ユダの裏切りは、教会が必ず警戒すべき貪欲と背教の象徴だが、マッテヤの出現は、教会を通して働かれ続ける神の回復の御業を示す代表的な事例だ」と強調します。最終的にユダは自らの絶望の中で命を断ち、神から委ねられた使徒職の機会を自ら放棄しましたが、マッテヤはその席を与えられ、神の救いの歴史に参加することになりました。この対比は、すべての時代のキリスト者に自らを省みるきっかけを与えます。私はユダのように貪欲や背教の誘惑に陥っていないか。あるいはペテロのように失敗しても悔い改めることで再び主の前に立つ準備ができているか。さらに、神が新たに立てて用いられる人々を喜んで受け入れ、協力しているだろうか。

使徒の働き2章に登場するペンテコステの聖霊降臨は、このマッテヤの選抜の直後に起こります。教会の秩序が整えられるとすぐに聖霊が降られ、この出来事を契機に初代教会は爆発的なリバイバルに突入します。そしてすでに悔い改めたペテロと他の使徒たちは、大胆に福音を伝え始めました。その結果、一日で三千人(使徒2:41)がバプテスマを受けて教会に加わるという驚くべき出来事が起こります。教会はもはや少数集団ではなく、エルサレム全体に広がっていく「新しい会衆」、すなわち「新しい民」となりました。旧約的な意味での「イスラエル」は血統中心でしたが、今や教会はキリストを主と告白するすべての人に開かれた「霊的イスラエル」です。

特に使徒の働き4章に至ると、エルサレムの宗教指導者たちはペテロとヨハネを逮捕しますが、すでに多くの人々が彼らの福音に応じた後でした(使徒4:4)。聖霊に満たされたペテロは「この方以外には、だれによっても救いは得られない。天下の人間に対して、私たちが救われるべきほかの名は与えられていないからである」(使徒4:12)と大胆に証しします。これはイエス様が神への冒瀆罪で訴えられたまさにその問題--イエスが本当に神の子なのか否か--において、勝利の宣言を行ったのです。ペテロはかつてイエス様の裁きの場で証しすべきときに沈黙し、「イエスなど知らない」と言ってしまった人物でしたが、今や少しも退かず、イエス・キリストの唯一の救い主であることを世に宣言しています。この場面はユダの裏切りとは反対に、教会が聖霊の力によって新生するとき、いかなる世俗権力にも屈服しないことを示しています。

イスカリオテのユダの失敗談は悲劇で終わりますが、教会はそこで座り込むことなくマッテヤを通じて秩序を立て直します。さらにペンテコステの聖霊降臨によって全国的(ひいては世界的)拡張局面に突入するのです。このすべての過程を眺めると、神は「人間の罪と失敗の上にも立って、依然として歴史を支配され、悔い改める者たちを用い、新たな人物を絶えず招いて、ご自身の御旨を成就される」という結論に至ります。これが使徒の働き1章におけるマッテヤ選抜事件の核心的意義です。

今日でも教会の内外ではさまざまな形の裏切りや分裂が起こります。人間である以上、誤った欲望を抱くこともあれば、一瞬の過ちで兄弟を躓かせることもあります。ところが聖書は、そこで話が終わるのではなく「悔い改めと福音への招き」がいまだに有効であると語ります。主は倒れた者が戻って来る道を開いておられ、また、悔い改めずに最後まで離れていった場所には、新しい働き人を立ててその空白を埋められます。これは「教会が神に属する共同体」である証拠です。特定の個人や組織ではなく、神が直接治められるがゆえに、教会は最終的に神の御心を果たし続けるのです。

ステパノの例はユダの失敗と正反対の道筋を示します。彼は「神殿の本質」と「メシアの死と復活」について力強く証ししました(使徒7章)。その結果、石打ちの刑で殺されますが、その場面を見届けたサウロ(のちのパウロ)は後に福音宣教の最も強力な器として用いられることになります。教会に対する激しい迫害があったのに、教会はそれで崩壊するどころか、むしろさらに広く散って行く先々で福音を伝えました(使徒8:4)。最終的に使徒の働きの最後(28章)まで行くと、パウロはローマで「だれにも妨げられることなく、神の国を大胆に宣べ伝え、主イエス・キリストに関することを教え」(使徒28:31)たという勝利の結論に達します。

このように福音が拡張していく原動力は、「裏切りや失敗による傷を超越する聖霊の力」だと言えます。張ダビデ牧師はこれを「人間が作った席ではなく、神が立てられた席が教会を導く」と表現します。ユダは自ら使徒職を捨てた人物でしたが、教会は神が選ばれたマッテヤを通して使徒の空席を埋め、前進を続けました。その後の教会史を振り返れば、教会内で無数の人々が罪を犯し堕落してきましたが、神はそのたびに新たな改革者やリバイバル運動を起こし、教会が福音の本質を回復するよう導いてこられました。そしてその中心には常に「聖霊の働き」がありました。

使徒の働き1章と2章のつながりは、旧約の預言(ヨエル2:28-29など)やイエス様の約束(使徒1:4-5、ヨハネ14:16-17)が実現する驚くべき成就の現場を示しています。マッテヤが選ばれて十二使徒が全うになり、彼らの祈りが続くと、すぐさまペンテコステの聖霊が下る場面は、神のご計画が綿密かつ真実に成し遂げられていく姿を劇的に描き出しています。教会はこの聖霊降臨をきっかけに、単なる一ユダヤ人派閥ではなく、「全人類に向けた福音の通路」として躍進します。人種や言語、文化の壁を超えて福音が宣べ伝えられ、多くの異邦人たちが主へと立ち返るようになるのです。

私たちはユダとマッテヤの対比の中に「教会の聖なる秩序」と「人間の弱さ」を同時に見出します。人間は罪によって裏切ることができ、絶望の果てには自殺という選択さえしかねません。しかし教会は人間の弱さだけで説明できるものではありません。教会は神の主権と聖霊の内住によって絶えず立て上げられ、回復され、前進し続けます。これこそが「聖霊時代」の特徴であり、使徒の働きの核心メッセージです。そしてその出発点が「エルサレム」でした。イエス様が「エルサレムを離れずにいなさい」と強調された理由はまさにここにあります。「父の約束されたもの」を受け、ユダの空席を埋めて再び使徒の座を立て直し、ついには世に出て福音を証しせよということです。

現代の教会においても状況は同じです。いろいろな形の「ユダ」が今なお教会の内外で生まれます。金、権力、教権、名誉などによって自らの席を捨ててしまう人もいれば、教会に悲惨な被害をもたらす不正や分裂が起こることもあります。しかしそのたびに神は「マッテヤ」を備えられ、聖霊によって教会を新たに立ち上げられます。教会を動かす最終的な力は、「人間の力や教権」ではなく、「聖霊の力と神の主権」だという事実を忘れてはなりません。

使徒の働きは「裏切りと回復、反逆と殉教、怠惰とリバイバル」が絶えず交錯する中で、それらすべての過程を貫く神の摂理を示すドラマのような物語です。イエス・キリストの復活が宣言された後、「十二」から一人が裏切って欠員が生じたように見えましたが、主は新しい人材を選び、使徒的共同体を存続させます。その共同体に聖霊が臨み、ペテロが説教すると数千人が悔い改め、ステパノが石打ちで殉教するとサウロが回心するという壮大な宣教の歴史へとつながります。教会はこのように波乱万丈の過程を経て成長してきたのであり、今なおその成長を止めることなく継続しています。

張ダビデ牧師は今日の韓国教会、世界の教会に向けて「私たちは裏切りと絶望にとどまらず、マッテヤを立てられる神の主権に目を向けよう」と訴えます。人間のせいで教会に傷を負ったり失望したりするたびに、使徒の働き1章のメッセージを握れということです。「教会は私たちのものではなく、神のものであり、私たちの弱さを上回る力で導かれるのは主である。」ゆえに私たちがなすべきことは「神の前に悔い改め、聖霊の助けを求めて、絶えず福音を伝える道を歩むこと」です。このとき最も大事な視点は「私がどれほど成功したか」ではなく、「私が聖霊とともに主のみわざを担っているか」という点です。

使徒の働きの冒頭の物語はすなわち教会の「誕生史」であり、同時に「アイデンティティ」を明らかにする序章です。教会は裏切り者を生み出したとしても共倒れにはならず、むしろ聖霊によって倍加される命があります。その底にはイエス・キリストの血の代価という確固たる土台があります。教会はイエス様の犠牲によって建てられた共同体ゆえに、どんな危機や堕落が襲っても、最終的には必ず回復し勝利します。そしてその勝利は世が言うような権力掌握や物質的繁栄ではなく、「魂を救う福音の拡大」として現れます。エルサレムから始まり地の果てにまで及ぶこの福音の行進は、すでに二千年以上続けられており、主が再び来られるその日まで止まることはありません。

ユダは旧約時代から続く裏切りの象徴として残り、マッテヤは神の摂理が人間の過ちを超える証として残りました。これは今の教会にも大きな警告と希望を同時にもたらします。警告とは、どれほど教会の働き人であっても、悪魔の誘惑に負けてユダのように裏切る可能性があるということです。希望とは、どれほど大きな裏切りや堕落が教会を襲っても、神はマッテヤのような新しい人を起こして教会の救いの歴史を止めないという事実です。そしてその裏付けとなるのが、まさに聖霊の働きです。エルサレムで臨まれたあの聖霊が、今もなお教会を運営し、世界のいたるところで福音の実を結ばせています。私たちが直面する現実の問題や教会内部の葛藤も、結局は聖霊のうちに解決されうることを信じるべきです。

張ダビデ牧師は、このような使徒の働き的洞察を土台として、「教会は失敗した人々の集合体ではなく、失敗を悔い改めて聖霊によって新生した人々の共同体」である点を何度も力説してきました。究極的に教会は「ユダの道ではなくマッテヤの道、絶望ではなく回復、裏切りではなく忠誠、断罪ではなく福音伝達」を選ぶべきだということです。そしてこれはイエス様が復活後、弟子たちに「エルサレムを離れてはならない」とおっしゃった御言葉にすでに内包されているのです。なぜなら、エルサレムは主の血痕が残る場所であり、教会が生まれた場所だからです。

使徒の働き1章において「エルサレムに留まり、聖霊を待ちなさい」との御言葉と、「ユダの裏切りの後、マッテヤを通じて秩序を回復した」物語は、教会が最終的に勝利するであろうことを予表しています。人間的な計算では裏切りが教会を滅ぼすかのように見えますが、聖霊が臨むと教会はさらに大きく成長します。このように神に不可能はなく、教会は人間の限界を超える恵みを受け取ることができるのです。聖霊とともにある共同体には、どのような裏切りも、どのような苦難も、最終的には福音の拡大を妨げられないのです。

今日でも多くの教会が大小の危機に直面しています。指導者の道徳的失敗や財政的腐敗、教権争いなどで共同体全体が揺さぶられることもあります。しかし、そのたびに私たちは「マルコの屋上の間を思い起こす」べきです。弟子たちが一つ心になって祈り、神の御心を求めたとき、聖霊が力強く臨まれました。そして「ユダの欠席」を神が癒し、「マッテヤ」を立てられたのです。これは教会の原型的場面であり、今も私たちが危機を突破するために手本とすべき霊的原理です。エルサレムを離れてはならないという御言葉、すなわち「はじめの恵みの場所を離れず、祈りと御言葉のうちに聖霊を求めよ」というのは、世代を超える真理です。

教会は「主とその御言葉」をしっかり握っているか、「聖霊の臨在」を渇望し従っているかによって生死が分かれます。ユダのように金銭や世俗的利害関係にのみ囚われれば、教会は一瞬で崩壊します。しかしマッテヤが選ばれた後、使徒たちが互いに連帯して祈るときにペンテコステの力が臨んだように、教会は繰り返し新たな希望を見出すことができます。張ダビデ牧師は「歴史が語るように、真のリバイバルはいつも悔い改めと祈りから始まる」と強調します。いくら危機が大きくても、教会が真実な悔い改めと祈りに集中するなら、聖霊は必ず働かれるのです。この聖霊の御業は使徒の働きの時代から今日に至るまで何度も繰り返し証明されてきました。

使徒の働き1章11節で天使は弟子たちに「あなたがたの間から天に挙げられたこのイエスは、天に上げられるのをあなたがたが見たときのまま、またおいでになるであろう」と語りました。ヨハネの福音書21章23節とも関連する「主の再臨」の約束です。私たちはその時まで「エルサレムを守りつつ聖霊を待ち望む態度」を持ち、また地の果てにまで福音を伝える従順に生きるべきです。自分に委ねられた使徒的使命は何か、教会内での奉仕の職分は何か、それを聖霊のうちに担おうとする努力をし続けるとき、教会はどんな裏切りや分裂も乗り越え、福音によっていっそう豊かに建て上げられていきます。

ユダとマッテヤ、二人の人物は「教会内に潜む裏切りと回復の痕跡」を象徴します。これはいつでも聖霊の臨在が決定的な差を生むことを示唆しています。ユダは聖霊ではなく悪魔の誘惑に心を明け渡し、最後は自死という悲劇を迎えました。一方、マッテヤは共同体とともに祈りのうちに神の御心を求め、使徒の職に就くことで教会の働きに加わりました。両者の差はあまりにも明らかです。教会がどちらの道を選ぶべきかは明白でしょう。ただ聖霊とともに、イエス・キリストの贖いのみわざを崇め、父なる神の約束を信頼することによって、教会は世の権力や富を超越して福音を伝えるべきです。

このように使徒の働きの第一章に記された短い物語(ユダの最後とマッテヤの選抜)は、その後教会がどのように曲折を乗り越えていくかを解き明かす鍵となります。さらにエルサレムを離れず最後まで待った弟子たちがペンテコステの聖霊に満たされて世界へ伸びていったように、現代の教会も聖霊のダイナミックな働きのうちに世の各所へ福音を伝えなければならないことを教えています。私たちはこの御言葉に基づき、教会がそのアイデンティティ(イエスの血で買い取られた共同体)と使命(地の果てにまで福音を伝えること)を忘れないよう、常に思い起こさなければなりません。そして教会内外で起こるさまざまな衝突や試みに直面するとき、人間的な落胆に陥るよりも、「マッテヤの道」を通して回復させ、前進させる神の恵みを信頼すべきです。

すべての焦点は、エルサレムから始まった聖霊の流れが地の果てにまで続く救済史的パノラマにあります。その途中、どんな裏切りも、どんな絶望も、神のご計画を阻むことはできません。イエス・キリストが復活され、罪と死に打ち勝たれたゆえに、教会もそのいのちを継ぎ、どのような形の死も克服しうるのです。ユダの裏切りも、ステパノの殉教も、ペテロの否認も、サウロの迫害も、すべてはキリストの復活と聖霊降臨の前に最終的には悔い改めと救い、回復と宣教の驚くべき道へと反転しました。この真理は使徒の働き全体を貫くメッセージであり、今日の私たちの教会や信徒たちにとっても依然として有効な神の言葉です。

張ダビデ牧師は「教会が裏切りの影を落としているように見える時でも、マッテヤの光は常に存在する」と語り、聖霊を受けた教会が立ち上がる理由を情熱的に説き明かします。私たちに必要なのは「悔い改め、信仰、祈り、聖霊」であり、この四つが組み合わさるとき、教会はいかなる傷も回復し前へ進むことができます。裏切りで汚れた席を聖霊が光に変えてくださるとき、教会は栄光の主の花嫁として、世に向かって福音を伝えるのです。

こうしてエルサレムから始まった福音の歴史、そしてその中で起きた裏切りと回復の場面は、二千年にわたる教会史の縮図とも言えます。教会史は繰り返し裏切りと堕落、悔い改めとリバイバルを経験してきましたが、そのたびに聖霊が働いて教会を新たにし続けてこられました。使徒の働きはその原型を示す手本です。エルサレムを離れずに聖霊を待ちなさいという主の命令、そしてユダの裏切りによる空席をマッテヤによって埋められた神の働きは「教会の守護者であり主権者は主ご自身だ」という事実を証言します。

私たちは個人的にも共同体的にもユダの道とマッテヤの道のあいだに立たされています。ユダのように貪欲や裏切りの可能性は誰しもが抱えていますが、マッテヤのように神に用いられる道もまた開かれています。その違いは聖霊の声にどれだけ従うのか、主の十字架と復活をどれだけ真実に握りしめているかにかかっています。そしてエルサレムにとどまれという主の御言葉は「苦しく困難な状況ほど逃げずに神の恵みを求めよ」という警告であり励ましです。その恵みが臨むとき、私たちはマッテヤのように「使徒の務め」を与えられ、教会共同体の完全性に寄与することができるのです。

これが使徒の働き1章に込められた核心メッセージであり、教会が世の終わりの日まで握り続けるべき指針です。主が再び来られるその日まで(使徒1:11)、エルサレムから始まった教会の道は続きます。人間の裏切りよりも大きいのは神の回復であり、死よりも強いのはキリストの復活であり、罪の力を凌駕するのは聖霊の力です。教会はこの真理に基づいて「エルサレムを離れてはならない」という御言葉を実践し、「マッテヤを通して示された新しい機会」や「ステパノを通して証明された殉教の情熱」、「ペテロを通して表された悔い改めと大胆さ」、「サウロを通して現された救いの力」を日々思い起こさなければなりません。そして最後まで福音を恥じることなく伝え、この世界に対し、イエス・キリストこそ唯一の救い主であると告白すべきです。

このすべての過程は究極的に「教会は主が血の代価で買い取られた共同体である」という認識から始まります。教会が自分たちのものでなく、キリストに属していると認めるなら、どんな裏切りや絶望も教会の本質を壊すことはできません。教会の主人は神であり、聖霊がその教会を運行されるのです。そしてこれこそがエルサレム教会の姿であり、使徒の働きが証言する復活信仰の結実です。イスカリオテのユダの裏切りが投げかけた濃厚な影を、マッテヤと聖霊降臨によって払いのけ、初代教会をむしろ爆発的にリバイバルへと導いた神の御業が、今日の私たちの時代にも同じように現れることを期待します。

私たちは使徒の働き1章の物語で立ち止まらず、その後に続く「聖霊のパノラマ」を読み進めるべきです。なぜなら教会はある一つの事件、一人の人物の失敗や選択で終わるものではなく、「主の再臨の時まで」絶えず続く救済史の中に位置づけられているからです。一見するとユダの裏切りで終わりのように見えても、実際にはマッテヤがそれを受け継ぎ、さらに大きな使命を全うしました。今日の教会もまた、どこかで挫折しても神が起こされる新たな恵みを経験できます。その鍵は「聖霊を消さず(Ⅰテサロニケ5:19)、エルサレムを離れず、悔い改めと祈り、御言葉と従順によって自分自身を捧げること」です。

エルサレムを離れるなとの命令と、ユダの裏切り後にマッテヤが選ばれたこの事件は、教会が持つ「始まりの大胆さ」と「回復の力」を鮮明に示しています。エルサレムは主の十字架と復活が交差する場所であり、聖霊が降られた場所であり、教会が誕生した場所です。そしてその教会の中では、人間の罪と限界を超える神の恵みが、裏切り者の代わりに新しい働き人を立て、彼らとともに地の果てまで福音を伝えるのに用いられます。これが使徒の働きの物語であり、今も教会が握るべき真理なのです。張ダビデ牧師が繰り返し強調するように、教会の真の力は建物や制度にあるのではなく、「聖霊の力と神の主権」の中にあります。そして私たちはユダの道を警戒し、マッテヤの召しを喜んで受け止め、主が再び来られるその日まで「エルサレムにとどまれ」と言われたその御心を完全に成し遂げていかなければならないのです。