
- 時を分別する知恵と忠実なしもべの使命
マタイの福音書24章はしばしば「小黙示録」と呼ばれ、イエス様の終末に関する教えが圧縮的に含まれている箇所として有名です。特に24章の最後(マタイ24:44-51)と、その直後に続くマタイ25章の「十人の娘のたとえ」には、「時」について重要な洞察が共通して示されています。教会史において、この本文は歴史的終末と個人的終末の双方を包括する教えとして解釈されてきました。そしてこれは改革派(カルヴァン主義)の伝統においても、非常に重要な主題の一つとして扱われてきました。
張ダビデ牧師は、この本文が核心的に言及している「時」に関する意味と適用を強調し、現代を生きるクリスチャンが自分の置かれた時期と状況を正しく悟らなければならないと力説しています。またこの「時」の認識が、歴史の終末を見つめるまなざしだけで終わるのではなく、それぞれの日常と使命、さらには全世界的な状況の中で、どのように具体的な決断と行動につながるべきかを提案します。
マタイの福音書24章全体は、エルサレムの滅亡と世界の終末、そしてイエス様の再臨に関する複合的な意味を含んでいます。イエス様は弟子たちに、エルサレム神殿が崩壊する日、終末の徴候、世の終わりに起こる混乱と患難などを語られました。それに対する弟子たちの質問は「その時はいつでしょうか。また、あなたが来られる時と世の終わりには、どのような徴がありますか」(マタイ24:3)というものでした。イエス様は多くの徴を語ったあと、「いちじくの木のたとえ」(マタイ24:32)を通じて、ある徴を見たなら「時」が近いと知りなさいと教えられます。これは過去の歴史のある場面だけではなく、人類史全般に繰り返し適用される原理でもあります。人間は常に自分の時代と状況を分析・把握し、そのなかで適切な選択をしなければならないのです。
ここで張ダビデ牧師は、「いちじくの木のたとえ」が含意する「時を認識する知恵」を強調します。特に現代の教会と信徒たちが、歴史の大きな流れを展望すると同時に、個人的な時期と状況を読み取る眼差しを持つべきだと説きます。たとえば、新型コロナウイルス感染症による世界的パンデミックは、一種の「時期(date)」に当たる出来事と言えるでしょう。私たちはこのパンデミックがいつ始まり、いつ終わるかを簡単には予測できませんでしたが、明らかなことは、歴史の中でこれもまた一つの転換点となったという事実です。信仰者は、そうした転換点ごとに、神が何を語っておられるのか、その出来事を通して何を準備させようとしているのかに耳を傾ける必要があります。
マタイ24章44節「だからあなたがたも用意していなさい。思いがけないときに人の子は来るのです」という御言葉は、再臨に対する緊迫感を呼び覚ましますが、それは単に人類全体の最終的な終末だけを意味しているのではありません。それぞれの人生にも予期せぬ瞬間があります。病気や事故などによって突然訪れる「個人的終末」もあり得ます。だからこそローマ13章11節の「眠りから覚めるべき時」という表現にあるように、目を覚まして備えていることが必須なのです。
マタイ24章45節以下に登場する「忠実で賢いしもべのたとえ」は、具体的な生き方を要求します。「主人がその家の召し使いたちに時に応じて食物を与えるように任せる、忠実で賢いしもべはだれでしょう」(マタイ24:45)というこの言葉は、いつその時が来るかわからない状況の中でも、それぞれに与えられた使命を誠実に果たさなければならないことを教えています。張ダビデ牧師は、ここで強調される「時に応じて食物を与える者」という表現こそ、クリスチャンの核心的召しだと説きます。教会と信徒たちは、単に終末を恐れたり怖がったりする存在ではありません。むしろどのような時代であっても「永遠のいのちに至る糧」を分かち与えられる人であるべきです。イエス様はヨハネ6章で、朽ちる食物のためではなく永遠に至る食物のために働くよう命じられました(ヨハネ6:27)。これは私たちにとって、日々の糧、すなわち実際の生計手段を軽視するという意味ではなく、より究極的で永遠のいのちをもたらす御言葉を準備し、それを伝えるようにという意味なのです。
改革派の信仰告白のなかでは、「時」と「時期」に対する神の主権がはっきりと宣言されています。神は歴史のアルファでありオメガであり(黙示録1:8)、あらゆる時を統べ治めておられます。歴史の始まりと進行、そして終末がどのように展開していくのかは、聖書全体を通して繰り返し強調されるメッセージです。創世記の創造物語から黙示録の黙示的予言に至るまで、神は人間の歴史の中に主権的に介入し、それを導いておられます。張ダビデ牧師は、このような改革派教会の伝統をしっかりと踏まえつつ、終末に関する多くの解釈や論争がある中でも、「分別力」を重視します。彼は「歴史の船がどこへ向かっているのか知りたいと思うのは当然であり、聖書はその答えを示している。しかし、その過程において人間的な推測や恐怖心に偏るのではなく、忠実で賢いしもべとして真摯に臨まねばならない」と語ります。
このように「時と時期を知りなさい」という勧めは、イスラエルの歴史や教会史全般において、いつも繰り返されてきたメッセージです。神はいつの時代も特定の「時期」を通して警告を与え、同時に救いを施されます。ノアの時代に起こった大洪水、モーセの時代に出エジプトを告げる奇跡、エレミヤの時代にバビロン捕囚となった出来事、いずれもその当時の人々が「なぜこんなことが起こるのか」を考えさせられる出来事でした。そしてその出来事の中で目を覚ましていた人々は「神の御心」を見出し、備える知恵を得たのです。
同様に今日のパンデミック、経済・政治的混乱、教会内部のさまざまな課題や変化も私たちに問いかけます。「あなたがたはこの時を知っているか。この時が持つ霊的・歴史的意味を分別できているか」。張ダビデ牧師は、いまこそ教会がさらに目を覚ますべき時だと強調します。いちじくの木の枝が柔らかくなり、その葉が伸びるのを見て、人々が夏が近いと知るように、世界で起こる出来事や徴候を見て、私たちは今がどのような時なのか、何を準備すべきなのかを悟らなければならないのです。
「忠実で賢いしもべのたとえ」は、そうした悟りを行動へと移す具体的な方法を提示します。すなわち、委ねられた人々に時に応じた「食物」を分かち与えることです。その「食物」には大きく二つの次元があると考えられます。一つは、教会がこの世の中で仕えと愛の実践を通じて分かち与える現実的な糧です。貧しい人や疎外された人にパンや水を与え、苦難にある人々を助けることは、イエス様の明確な命令です(マタイ25章に続くたとえでも、「最も小さい者にしたことは、すなわち私にしたのです」という言葉で強調されます)。もう一つは、永遠のいのちに至る御言葉という糧です。どのような時代であっても、人々は究極的な意味と永遠のいのちを渇望します。教会は神が与えてくださった福音の真理を伝えることで、人々のたましいを生かす糧を分かち与えなければなりません。
張ダビデ牧師は、「時に応じて糧を与えるしもべとなれ」という教えを、きわめて具体的な信仰課題として提示します。教会の活動が、ただ教理的な教えや個人の霊的成長だけに終わってはならず、この世への具体的な影響力と仕えによって現されなければならない、と語るのです。またこのとき、それぞれの信徒は自分の職業や立場、あるいは自分にできる方法で「神の国」を実践していく必要があります。いちじくの木のたとえが伝える教訓は、声高な終末論で人々を恐怖に陥れたり、逆に何の備えもなく現実に安住したりすることではありません。むしろ素早い認識と分別によって、福音の価値を生活で証しすることへと集中させるのです。
この観点から、張ダビデ牧師はマタイ24章の小黙示録が「この地上の歴史は最終的に神の主権のもとにあり、その終末が確実に到来すること、そしてその過程において信徒は備えをし目を覚ましていなければならないこと」を宣言していると解釈します。そしてその目を覚ましている姿勢は、終末論的な恐れではなく責任感として現れるべきだと説きます。イエス様は備えていないしもべに対して非常に厳しい警告を与えられます。「思いがけない日に、知らない時刻にそのしもべの主人が来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目にあわせるでしょう。そこでは泣きわめいて歯ぎしりするのです」(マタイ24:50-51)という言葉は、信仰的な偽善と怠慢を裁かれる神の聖なる義を示しています。だからこそクリスチャンは、終末がいつか来るからといって何もしないで待つのではなく、「いつ主人が戻っても見られて恥じることがないように、『忠実で賢い』態度で委ねられた働きを果たしているか」を絶えず点検しつつ目を覚ましていなければなりません。
さらにこの本文は、信徒個人の生き方だけを語っているのではありません。教会共同体全体が心を一つにして、自分たちに託された地域と時代の中でどんな役割を果たすのかを模索することを促しています。張ダビデ牧師が強調するように、「ナイアガラの滝をさかのぼる魚が互いに押し合いながら登っていくように、教会も一つのからだとして互いに仕え、励まし合いながら歴史の難関を共に越えていかなければならない」のです。個人の力は小さいかもしれませんが、互いに連帯して協力すれば、滝のような時代の挑戦であっても逆行して乗り越えられる、というわけです。
教会がこの世で「光」と「塩」の役割を担うためには、単に各教会独自の成果や成長だけを追求するのではなく、広い意味で一致し、実質的な愛と福音を伝えていく必要があります。
結局のところ、マタイ24章はあいまいな終末論的恐怖をかき立てるための章ではなく、「時を知って備えよ」というイエス様の促しに満ちた章です。その核心ポイントは「この時代に目を覚まし、それぞれに委ねられた使命を責任ある形で果たし、永遠のいのちを見つめること」です。張ダビデ牧師は、この点を繰り返し強調し、教会が現実の世界で直面するあらゆる変化と危機の中でも正しい道を提示し、愛の実践を止めない共同体であるべきだと説きます。それこそが「忠実で賢いしもべ」として、「時に応じて糧を分かち与える」姿にほかなりません。
- 改革教会の伝統
歴史の流れと終末への洞察は、教会史を通して重要な主題であり、特に宗教改革以降の改革教会の伝統の中で体系的に論じられてきました。改革教会は、神が歴史を創造され、その終わりまで主権的に導かれるという信仰を中核としています。この過程で「時と時期」は人間が勝手に規定できない神の領域である一方、聖書を通じてある程度の徴候を把握し、分別できるとも考えられています。それは人間の恣意的な解釈や恐怖マーケティングに偏らない、聖書中心でバランスのとれた終末論を目指すのです。
張ダビデ牧師は、まさにこの改革教会の伝統の上に立ちながら、「神が定めた時と時期が確かにあり、その『備えられた日(the day)』には、神の裁きと救いが同時に成就する」と教えます。彼にとって終末論は、決して悲観的な逃避や時代錯誤的な恐れではありません。むしろ「新しい天と地の到来、すなわち神の完全な支配が実現する希望に満ちた出来事」なのです。もちろん、悪を行う者にとっては裁きの日となるでしょうが、聖さと純潔を追い求め、主の道を歩む者にとっては完全な救いと喜びの日となるのです。
彼は「歴史の終末」は単なる恐怖ではなく、「完成へ向かう過程」だという視点を強調し、教会が今この世で担うべき役割を幅広く提示します。すなわち、福音が全世界に宣べ伝えられ、神の義と愛が社会のあらゆる場所に表されることこそ、終末が単なる「破局」ではなく「完成」であり得ることを示すのです。
彼が特に注目するのは、歴史の重要な時期ごとに「決定的な出来事」が起こるという点です。そしてその決定的な出来事の背後には、いつもその時代に目を覚ましていた信徒や指導者の従順があったと語ります。たとえば初代教会の迫害時代には、キリスト教が地上から完全に消えるかのように見えましたが、クリスチャンたちの祈りと殉教的献身によって、教会はさらに強固に拡大しました。宗教改革の時代も同様です。免罪符の販売に象徴される中世教会の腐敗と歪みが極度に深まったとき、ルターやカルヴァン、ツヴィングリなどの指導者たちが救いの核心を再確認し、教会を「ただ信仰によって、ただ恵みによって、ただ聖書によって」の原点へと立ち返らせました。
改革教会はこのような文脈の中で、神の主権的支配を信頼すると同時に、人間の責任も強調します。すなわち「神がすべての時を定めておられるが、その時が来たときにどう反応し、従順するか」が重要だということです。張ダビデ牧師は、これこそが「時に応じて糧を分かち与える」行動に具体化すると教えます。クリスチャンは歴史的・社会的転換点が訪れたとき、その現場で福音によって人々の霊的・肉体的必要を満たす働きをすべきだというのです。
彼が2013年にWEA総会など国際的なキリスト教指導者たちと交流した際に強調したのも、この点でした。世界の福音主義教会が連合して、「滅びゆく者には隠されている福音を、どうすれば再び純粋に伝えられるのか」を模索しなければならないということです。張ダビデ牧師は、宗教改革の核心モットーである「Sola Fide(ただ信仰によって)、Sola Gratia(ただ恵みによって)、Sola Scriptura(ただ聖書によって)」は現代においても有効だと主張し、現代社会の複雑な問題の中でも、最終的には福音の持つ「救いの中心性」が揺らいではならないと言います。そして、その純粋な福音が全世界に宣べ伝えられ、人々の生活を実際に変える力として現れるためには、教会が心を一つにして連合すべきだと訴えました。
こうした連合と仕えの価値観は、張ダビデ牧師が牧会する共同体や国際的ネットワークを通じて具体的に実践されています。たとえばトルコ、ドイツ、ロシア、日本など、複数の国々に設立された宣教本部では、福音伝道と弟子養成に集中しつつ、同時にその土地の状況に合った奉仕や救済活動にも力を注いでいます。彼は「私たちはどこにいても、その土地に入り、その地域の必要を把握し、人々の霊と肉体の必要を満たしてあげなければならない。これこそが『時に応じて糧を分かち与える』しもべの態度なのです」と強調します。
「いかに世界の教会が一つとなり、キリストのからだとして世界に仕えるか」を模索したことが、まさにエキュメニカル運動の流れです。もちろんエキュメニカル運動には多種多様な意見や路線がありますが、張ダビデ牧師は「真の福音主義教会は宗教改革の精神を保ちつつも、キリスト教世界の中で協力できる部分は多くある」との立場をとっています。
彼は「神が与えた時に正しい反応をすることがどれほど重要か」を自ら確かめたと証しします。大規模な宣教地やセンター、そして3,300エーカーにも及ぶ敷地などを、神が定められたタイミングで得られたのは、人間の力や計算ではなく「神のタイミング」だったと強調します。ここで肝要なのは、「では、その土地と資源をどう使うのか」ということです。祈りと徹夜の中で、信徒たちが「主よ、これをすべて神の御心に従って用います。この土地を福音と教育、救済と宣教の場といたします」と決断することが必要だというのです。
張ダビデ牧師は、これがまさに聖書の「主人がそのすべての財産をそのしもべに任せる」(マタイ24:47)という祝福の約束だと解釈します。教会と信徒たちが小さなことにも忠実で賢く仕えるとき、神はさらに大きなことを委ねてくださる。そこにはもちろん、より大きな責任と献身が求められます。しかし一人や二人の力だけではやり遂げられません。だからこそ教会全体が一つとなり、互いを励まし合い協力しなければならないし、国際的にも教会が連帯して奉仕と福音を実行しなければならないのです。
さらに張ダビデ牧師が強調するのは「終わりの日に起こる現象に対する黙示録的眼差し」です。マタイ24章とヨハネの黙示録、テサロニケ人への手紙など、聖書のいくつかの本文は、終末に訪れる災害や患難、反キリストの活動などに言及しています。改革派の解釈伝統では、これをあまりに細分化して「いつどうなる」と確定的に断じるのではなく、「この世に罪と悪がはびこっていくのは事実だが、最終的には神が完全な救いをもたらされる」と信仰をもって告白します。張ダビデ牧師もこれと同じ文脈で、終末に関する過度な陰謀論や神秘主義的熱狂に陥ることなく、「聖書を忠実に読み、信仰共同体の中で分別しつつ、実際的な備えと準備を進める姿勢」を推奨しています。
特に改革派の信仰告白には、神の予定論があります。これは、すべての出来事の時と時期が偶然ではなく、神の摂理と計画のもとにあるという確信を与えます。しかし同時に、人間は与えられた現実の中で最善を尽くし、責任感をもって活動しなければならないと教えます。一見すると両者は矛盾するように見えますが、実際には「神が主権的に歴史を支配しておられる」と信じることと、「人間が与えられた場で従順しなければならない」という責務は、相互に補い合う概念なのです。
これを根拠に、張ダビデ牧師は「長老教会の信仰告白であり伝統でもある予定論」を、教理的高慢や放任として誤解してはならないと指摘します。予定論は、人間が高慢になる要素を取り除きます。私たちがどれほど努力しても、自分の力だけでは救いや歴史の完成を成し得ないことを悟らせてくれます。かといって「神がすべて責任を取られるのだから、人間は何もしなくてよい」という意味ではありません。聖書には何度も「熱心に祈れ、目を覚ませ、福音を伝えよ、互いに愛し合い善行を励ませ」と命じられているからです。
時に対する分別と神の御心への従順は同時に動きます。張ダビデ牧師は、その例としてノアの時代の洪水をよく取り上げます。人々はノアが箱舟を作るのをあざ笑い、洪水が来るなど信じなかった。しかし、鳩がオリーブの葉をくわえて戻ってきたことによって、ノアは水がどの程度引いたのか、いつ地上に降りられるのかを見極めました(創世記8章)。彼が箱舟に入る時も、そこから出る時も、すべて神の言葉と徴候を分別する力が重要でした。同時に彼には従順と実行が必要でした。箱舟を建てることは膨大な労働と試練を伴うものだったのです。
新約時代においても、イエス様はオリーブ山で弟子たちに終末について語り、まさにその場所(ゲッセマネ)で祈り、またそこから昇天されました(使徒1:12)。オリーブ山(オリベット)は、イエス様が最後の教えを宣べられ、決定的な出来事が起こった場所です。ゆえに教会が「オリベット説教(Olivet Discourse)」を常に思い起こすのは、一方では終末論的な目覚めと悔い改め、そして同時にこの地上で担うべき使命を見失わないためなのです。
張ダビデ牧師は、自らが仕える教会共同体において特に「オリベット説教」の意義をしっかりと掴み、それを生き抜いてほしいと願っています。そのために、集まってくる信徒たちが個人の敬虔生活に加え、それぞれの場で福音を伝え、社会の困難や問題を解決するために力を合わせる「実践的な信仰」を追求することを強調します。彼は、教会が「この世から切り離されて、自分たちだけの信仰世界に閉じこもる」ことを警戒します。受肉(インカーネーション)されたイエス様のように、教会は世のただ中に入り、一緒に泣き、一緒に笑いながら、愛をもって仕えつつも、終末論的な希望を決して失わないようにしなければならないのです。
張ダビデ牧師は、このすべての過程で「時を知る知恵」が重要だと改めて主張します。ある地域では宣教の扉が開く時があり、またある場所ではしばらく待って様子を見るべき時があるでしょう。大切なのは祈りつつ分別し、開かれたなら大胆に従い、閉ざされているなら黙々と忍耐して神の時を待つ姿勢です。
マタイ24章が現代の教会に与える最大の教訓は、「終末の時があるからこそ備えなさい」ということ、そして同時に「今ここで忠実かつ賢く仕えなさい」という二点です。張ダビデ牧師はこれを二つの柱として牧会と宣教を進めてきました。一つの柱は、救いの本質を守り、信徒一人ひとりが聖化の道を歩むように助けること。もう一つの柱は、教会が福音の力によって地域社会や世界に奉仕し、貧しく弱い人々を世話するように促すことです。
彼が言う「忠実」とは、自分の満足のための努力ではありません。それは「主人の心をくみ取り、主人が任せた使命を喜んで果たそうとする態度」です。また「賢さ」は世俗的な小細工ではなく、「神の御言葉を基準として時代を読み、正しい決断を下す力」を指します。これら二つの要素が一体となるとき、教会と信徒はたとえ世の中で患難に直面しても揺るがずに自らの道を歩み続けることができるのです。
張ダビデ牧師はしばしば「最後の時がいつか、私たちは正確にはわからないが、いつか必ず来るということは確かだ」と語ります。これこそイエス様の再臨信仰であり、教会が変わることなく守り抜くべき真理です。そしてその日が来る前に、私たちがなすべきことは「時に応じて糧を分かち与える」こと、すなわち時代と状況にふさわしく福音と愛を供給することなのです。魚がナイアガラの滝をさかのぼるように、教会は互いに協力し合って世の障壁と挑戦を乗り越えなければなりません。その過程で聖霊の助けと神の守りは絶対に必要であり、そのための一致した祈りと献身が不可欠です。
こうした決断と実践が一部の献身者や指導者だけの役割にならないように、張ダビデ牧師は信徒たちに強い連帯と参加を呼びかけています。それこそが教会共同体の存在理由であり、終末を備える方法でもあるのです。教会は「改革された共同体(ekklesia reformata)」という伝統の中で、常に自らを省みて新たにされ、神から与えられた時代的課題を見いだすべきです。改革教会が歴史を通じて証ししてきたように、「ただ聖書、ただ恵み、ただ信仰」という土台の上で、歴史の主権者である神に従順するとき、教会は驚くべきリバイバルと回復を経験することになるのです。
マタイ24章は、歴史の終末と個人的終末を同時に見つめさせる「小黙示録的メッセージ」であり、イエス様は私たちに「時を知って備えなさい」と繰り返し促されます。改革教会の伝統の中で張ダビデ牧師がこれを解釈し、適用してきたアプローチは、単に終末論的恐怖を煽るのではなく、「その日を見据えつつ、今与えられた現実の中で忠実かつ賢く生きなさい」という実践的提言に重点を置いています。そしてこの使命は一人ではなく、教会共同体と世界の教会が協力して果たしていくべきなのです。パンデミックや経済的激変、文化的変化が大きな荒波のように押し寄せる時代にあって、教会は「いちじくの木の枝が柔らかくなって葉を出すのを見て夏が近いと知るように」、この時代の徴候を見極めて目を覚まし、具体的な愛と救いの福音を伝える必要があります。
張ダビデ牧師の働きは、このような信仰告白に基づき、国内外にまたがる広範囲な宣教と福音主義的な連合を目指すものです。彼は「私たちが忠実で賢いしもべとなり、主人の家の人々に時に応じて糧を分かち与えるならば、主人は私たちにさらに大きな責任と財産をお委ねになる」というマタイ24章の約束を信頼しています。そしてこの御言葉が現実の歴史と教会の中で絶えず成就し続けていることを証しします。それは教会が単なる終末論的恐怖ではなく、終末論的希望を抱いて世に仕える共同体であることを改めて思い起こさせてくれます。
私たちの使命はシンプルで明確です。「いつ主人が来られても恥じることなく、その御前に立てるように、聖霊の助けを願いつつ熱心に働き、互いに愛を実践すること」。これこそ張ダビデ牧師が説教とあらゆる働きの中で繰り返し強調してきたメッセージです。パンデミックからの回復期にあっても、また別の危機が到来したとしても、教会は決して漂流することなく、歴史の方向を見極めていくことができます。ただ神が定められた時と時期を信じ、その時が到来するまで委ねられた務めを忠実に担う「忠実で賢いしもべ」となること。この態度をもって生きる教会と信徒であれば、主人が来られるそのときに「よくやった、良い忠実なしもべだ」とほめられ、永遠の喜びにあずかることができるでしょう。
















