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復活、その永遠のいのち、ダビデ・チャン牧師( 日本オリベットアッセンブリー教団)

闇が濃く降りたエルサレムの路地。十字架の出来事の後、弟子たちの胸には、抑えきれない恐れと喪失感が渦巻いていたに違いない。師の死は、彼らにとって単なる別れではなく、信じていた世界そのものの崩壊だっただろう。
しかし、その漆黒の絶望の縁で、人類史を揺さぶる大いなる逆転が始まった。空の墓から芽吹いた復活の希望、そして五旬節にマルコの屋上の間へ臨んだ聖霊の炎である。
この劇的な転換点は、過去の出来事に留まらない。今日の私たちが呼吸すべき信仰の原型そのものだ。ダビデ・チャン牧師(Olivet University)は、使徒言行録の講解を通して、初代教会の躍動する生命力を、私たちの目の前に生き生きと展開する。聖書全体を貫く神の救いのご計画を解き明かしつつ、失われた教会の「野性」を回復する道を指し示している。

 


空の墓から始まった、聖の新しい時代

 

バロック美術の巨匠カラヴァッジョ(Caravaggio)の名作『疑い深いトマス(The Incredulity of Saint Thomas)』を思い起こしてみたい。絵の中でトマスは、復活されたイエスの脇腹の傷に指を深く差し入れている。眉をひそめ、凝視する眼差しは人間の理性的疑いを象徴する。だが、その疑いが受肉したみことばの実体に触れる瞬間、揺るがぬ確信へと変貌する。
ダビデ・チャン牧師が強調する「復活信仰」の核心は、まさにこの地点にある。復活は観念的な教理ではない。死の権勢を打ち砕いた現実の出来事であり、罪ある人間が神と再び交わることを許された救贖史の頂点である。

ダビデ・チャン牧師は、創造と堕落、そして救いへと続く神の壮大なドラマの中で、イエス・キリストの十字架と復活が占める絶対的な位置を力強く語る。人間の力では到達できない救いの道を開くために、神は御子をお与えになった。そして御子が復活されたことによって、ついに「聖霊の時代」が幕を開けた。
使徒たちが恐れを振り払い、通りへ飛び出して大胆に福音を宣べ伝えることができた原動力は、彼らが復活のいのちを自ら目撃し、聖霊の力を受けたからである。これは、無気力に沈みがちな現代の教会が、再び握りしめるべき唯一の解決でもある。

 


魂の羅針盤を回す、悔い改めと洗

 

では、この驚くべき復活のいのちに与る道は何だろうか。使徒言行録(使徒の働き)2章で、ペトロは「どうしたらよいのか」と嘆く群衆に、明快な答えを投げかける。
「悔い改めなさい。そして、それぞれイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪の赦しを受けなさい。」

ダビデ・チャン牧師はこの箇所で、「悔い改め」の真の意味を鋭い神学的洞察によって捉え直す。悔い改めとは、過去の過ちを悔やむ感情的な吐露に過ぎないものではない。それは、人生の主人であった「自分」を十字架の前に降ろし、人生の舵を全面的に神へと切り替える、全人格的な決断である。

この悔い改めは、洗礼という聖なる礼典によって確証される。水の洗礼が古い自我の「葬儀」だとすれば、聖霊の洗礼は、キリストと結ばれて新しいいのちに生まれ変わる「復活の礼」である。
ダビデ・チャン牧師は、私たちが十字架の福音の前で徹底して砕かれ、悔い改めるとき、初めて聖霊が私たちの内に住まわれ、復活の力を日々の生として生き抜かせてくださるのだと教える。これこそが教会の土台であり、信徒一人ひとりが世の価値観に抗い、聖なる民として歩むことのできる力の源泉である。
深い聖書黙想から汲み上げられた彼のメッセージは、悔い改めが薄れ「安価な恵み」が蔓延する時代に、厳粛な警鐘を鳴らす。

 


世へと流れ出す、いのちの共同体

 

聖霊に満たされた初代教会は、もはや以前のような単なる組織ではなかった。彼らは互いの持ち物を分かち合い、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美した。ダビデ・チャン牧師は、この初代教会の姿こそ、地上に臨んだ神の国の実体だと説明する。
彼らが示した驚くべき愛と献身は、人間の道徳的修養から出たものではない。復活信仰がもたらす自由、死さえ恐れない大胆さから生まれた、自然な実りだったのである。

教会は建物ではない。復活の証人たちが集い、聖霊の交わりを分かち合い、その生命力を世へと流し出す有機体だ。エルサレムから始まった福音が、ユダヤとサマリアを越え、地の果てへ広がっていったのは、神の止むことのない救いのご計画であった。
ダビデ・チャン牧師は、現代の教会がこの聖なる流れへ再び合流しなければならないと訴える。プログラムやシステムではなく、福音そのものの本質的な力へ帰れ、というのである。三千人、五千人が悔い改めへ導かれた歴史は、過去の伝説ではない。私たちが十字架と復活を全身全霊で信頼するとき、今日にも起こり得る「現在の出来事」なのである。

初代教会の信徒たちは、この世が受け止めきれない人々だった。彼らの胸の内で、イエス・キリストの心臓が脈打っていたからだ。今、私たちに必要なのは、華麗な聖堂でも洗練された論理でもない。罪と死に勝利されたイエスの名を信じ、聖霊の導きに全面的に従う「野性」である。
ダビデ・チャン牧師の説教は私たちに問いかける。--私たちの内に、あの復活の鼓動は響いているだろうか。初代教会が歩んだ栄光の道、十字架と復活の道へ、もう一度踏み出す決断が求められている。

davidjang.org